最近ではあまり見かけなくなったチンドン屋さん。4月の6、7、8の3日間、富山市で「全日本チンドンコンクール」が行われました。日経新聞の16日の文化欄に大きくでていました。
春先に富山市でコンクールが開催されていることは知っていましたが、今年でもう53回目になるというのです。しかも26万人の観客を動員してにぎわっています。
(この動員数となると、すでに大きな地方祭りの域ですね。単なるコンクールではなくなっています。昨日今日はじまった俄イベントと違い、すっかり根付いています。これ、歴史の持つ重みでしょうか)
ステージで二組のチンドン屋さんが、同じスポンサー企業の宣伝を競い合うという趣向です。太鼓や笛の音に合わせた口上や寸劇、だじゃれや踊りなど華やかで滑稽なチンドン芸を披露しての勝負となります。
第1回目は1955年(昭和30年)。政治的には55年体制がはじまり「もはや戦後ではない」との経済白書の宣言は翌年のことです。前の年に「力道山の空手チョップ」のテレビ放映がはじまり街頭テレビが黒山の人だかりだった頃です。
コンクールへの参加者が2000人、パレードは8万人の人出でにぎわったということです。ちなみにその前の年、戦後復興をアピールする目的で「富山産業大博覧会」が開催され、県内外から100万人を集めています。
博覧会が終了して空白感がただよった穴埋めとして開催されたようですが、参加したチンドン屋さんの数には驚かされます。
なにしろ1991年には出場がたったの13チームまで落ちこみ、開催を危ぶまれるまでになったのですから。(チームの人数が5~10人としても100人前後というところでしょう。とすれば20分の1まで減少したということですね)
今年は30チームが参加し、素人のチンドンも加わっておおいに盛り上がったということです。危機感を覚えた各地のチンドン屋さんが若手育成に力を入れ出場者数も徐々に回復しつつあるとのこと。かつては東京と大阪が二大勢力だったものの、最近では九州勢が元気らしい。
37年間、裏方として運営に携わってきた商工会議所の元担当者は、最初の頃は「厚く塗ったドーランに、荒っぽいしゃべり方。興行の世界で生きるチンドン屋は何となく恐ろしい感じがした」と、昔気質の彼らの相手にずいぶん気を遣ったとのことです。
二大勢力だった一方の東京は伝統的な型を守り、他方の大阪は進取の気性に富み、双方の仲が悪く、あわやけんかという一色即発の場面もあったということです。
「おめえらのやってるのはチンドンじゃねえ」「何言うか。おもしろいのはこっちや」
そこまで熱くなるのは真剣勝負だったから。審査員が面白かった方の旗をあげ、旗の数が多い方が勝ち。優勝チームは箔がつき、その後の出演料があがる。衣装もコンクールに合わせて新調し、その後1年間つかうのです。
チンドン屋さんは動く宣伝媒体です。あの独特の「にぎやかし」の持ち味は捨てがたいものがあります。60年代は参加チームが50前後あり、70年代から減少しはじめたとのこと。
(70年代からの減少は、時代の移り変わりにチンドンスタイルが次第に合わなくなり置いていかれつつある、ということですね。ちょうど団塊世代が20代前半の頃でして、高度成長のひずみで公害や自然破壊が進み、人々の価値意識が〈外から内へ〉と変わりつつある時代です)
宣伝媒体ではないですけれども、チンドン屋さんに代わって集客ということで人気なのが大道芸やヘブンアーティスト。
小売りの業態によっては(需要は)その雰囲気からチンドン屋さんではなく大道芸やヘブンアーティストということになるのでしょう。
今はともかく、チンドン屋さんの復活があるとすれば、きっとスタイルを換えた新たな彩りや装いをまとえるかどうかでしょうね。それはある意味、色物から本格派への著しい転換ですね。そうした脱皮・脱却が第一に問われるのではないか、と。
冬の名残を吹き払う北陸の春を呼び込む風物詩の「チンドンコンクール」。イベントと興行の世界は重なり合う部分も少なくないですけれども、チンドン屋さんの興行という世界、長い間イベントに携わってきた方なら、ご一緒する機会もあったことでしょうから色々感慨もあることことでしょう。
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